名前のない生活

何者でもない僕のなんてことない日々

28歳で死ぬ日記

日記だよ

 

昨日・今日で起きたことを軸に書いていくから日記だけど、内容が暗いのでネガティブ嫌いな人はブラウザバックしてね♡

 

 

昨日母と話したら死にたくなった。母と関わると死にたくなるのは日常茶飯事なので取り立てて報告することじゃないんだけど、心的に進展があったので壁打ち。

 

やはり壁打ち精神が至高

まずあらためて、壁打ちの精神って重要だなと思った。

対人で何か言ったりSNSで何か言うと叩かれたり受容されなかったりして気分が落ち込むこともあるし、反応がないことに寂しくなったりして、誰かに聞いてもらおうという考えが甘かった。間違いだったんだ。かといって、自分の中に抑えようとしてもうまくいかない。元来おしゃべりなんだよね、私は。主張したがり。

ブログはなるべく反応が見えないようにしてるし(コメント欄や評価ボタンを表示してないなど)、SNSと違って読む人がいない、いたとしてもそいつは危篤くらいに思っているので私としては安全だから、改めて思ったことを言うのはブログがベストだと思いました。

 

しっかり準備して28歳で死ぬ

それでは昨晩の話。

母とのやりとりの結果、猛烈に死にたくなった、今この瞬間にも死にたい!と。でも準備してなかったからその瞬間には死ねなかったんだよね。だからアマゾンでロープを注文しました。5メートルのやつを買ったけど、5メートルあれば十分だよね?長さ、たりるよね?

 

もともと中学生くらいの時に「30歳まで頑張ってそれでもダメだったら死のう」って思ってたのを高校や大学の時は忘れて、ただ「死にたい死ねない」みたいな脳筋ゾンビみたいになってたんだけど、最近冷静さ(?)を取り戻し、「そういえば30歳を目安にしていたんだっけ」と思い出し、30歳で死ぬ予定で生きることにしました。

 

しかし、やっぱりつらくて死にたいので、30歳まで待てない🖕って感じがしていて、25歳の誕生日に死のうかなって思ってたの、一案としてね。

25歳の誕生日は盛大にお祝いしてあげようと思っていたんだけど、自分が喜ぶことで、自分がコスト(お金とか手間とか)を払わないでいいようなことってあまりなくて、私が私にしてあげられる最高のお祝いは自殺なんだよね。だからまぁ死んでもいいかなって思ってたけど、占いをあてにして(笑)2020年のクリスマスを楽しみにしている面もあるので迷ってたんだよね。

 

昨晩明確に死のうと思って…あ、今までも強烈に死にたくて死にたくてどうしようもない気持ちのこともあったけど、昨日は強烈な虚しさで猛烈に死にたいという気持ちもありながら、半分冷静に考えられてたから、まぁちょっとは成長したかな?単純に自分の調子がいい日だったのかもしれないけどw。それで、ロープを注文して寝床に着いたのだけど、シュミレーションしてみると25歳の誕生日に死ぬのは難しいかもしれないと思った。残念だけど。今この記事を書いているのは22日なのだけど、私の誕生日は24日なので、明後日なんだ。時間がない。

 

今朝改めて考えるとやっぱり難しいかなと。死にたいけどまだ死ねないと思う。準備ができていない。

来月デザフェス出展するのができなくなってもったいないなとか、友達と遊ぶ約束しちゃったなとか、依頼いただいたイラストを描き終わってないのが申し訳ないなという気持ちがあって若干引っかかる。一応遺書を書いたり削除してほしいアカウントのリストや死んだことを連絡してほしい友達のリストも作りたいとか…。

どれも自殺を踏みとどまるほどのことでもないけど、死ぬのって莫大なエネルギーを消費するからそういうささいな引っかかりがあるせいで死ぬ踏ん切りがつかなくなっちゃうかもしれない。だから、やっぱりちゃんと準備しようと思った。

 

かといってタイムリミットは30歳だとちょっと遅いかなという気もしていて…30歳まで生きちゃうと「もう今更」って思って惰性で生きちゃうんじゃないかって思って。なのでイムリミットは28歳にしようかと。

28歳は「28歳くらいになれば人生の方向が定まっているだろう」と思っている時期だったのでちょうどいいし、28歳の誕生日には通信大学も卒業し終えている予定なので、なにかとちょうどいいと思う。

 

ということで、今すぐにでも死にたい気持ちではあるけれど、着実に自殺するために、感情に流されて喚くのではなく、冷静に死ぬ準備をしたいと思う。一応28歳がタイムリミットだけど、その前に死ねそうになったら死ねるように、優先順位を立てて準備していこう。最終的には、これから3年かけてしっかり死にたい。抜かりなく、クールに華々しい自殺を遂げたいです(ポジティブ)。

28歳の私はここじゃないどこかに居場所を見つけて生きていくことにするか、そうでなければ死ぬので、いずれにしても自分の物を処分できる状態にもしておこうと思う。

 

毒親と私

う〜〜〜ん。今喉が渇いていて(風呂上がり)、飲み物を取りに行きたいんだけどキッチン付近に母がいて飲み物を取りに行けない。顔見たくない。あ〜、喉乾いたよ〜。

 

さて、昨日の出来事についてもう一点。毒親との関係について。

昨日の夜は死にたみに襲われたけど、今朝になればさらに冷静さを取り戻していたので、あらためて昨日のことを考えるとおかしいなと。

 

そういえば母には私や妹が死にたいと思う理由が理解できないらしいけど、そりゃ私と妹が死にたいと思い続けている原因の十中八九は親のせいだから、自覚ありながらあえてやっているなら恐ろしいなと思うし、いっそ早い段階で殺しなさいよと思うし…なのであえて私や妹に死にたいと思わせようとしていたわけじゃないだろうから、母には理解できないいのが当然。理解できないからこそ死にたいんでしょうね。死にたくなることが理解できるならその言動をしないだろうし、その言動をされなければ私たちは死にたいと思っていないだろうから。「なんで」って思うのも馬鹿らしいよ。わかるわけないんだから(わかってやってるなら人としてやばい)。私の言っている意味わかる?

 

昨日のことを振り返って改めて、私は母を幸せにするために生きているわけじゃないのだから、母のために私が死のうとするのもおかしいよなと思った。

どうしても感情に翻弄されてしまうし、「子」としての意識がしっかりと根を張ってしまっているけれど、一人の人間として、私はしっかり自分を幸せにしたい。私を幸せにするのは私だし、母を幸せにするのは母だけだ(勝手にやってくれ)。私は幸せになるために生きたい。感情に翻弄されながらも、常に、「自分を幸せにしてあげる」という視点の自分を強く持ち続けなくてはいけない。

親のために生きているわけじゃないのだから、私は私のために生きていいのだから、親を“使い捨てて”でも、私の幸せをしっかりと握ろうとしつづけなくては。誰かが私を幸せにするんじゃない、私が、私を、幸せにするんだ。幸福なんて主観だからね。

 

今までは感情に翻弄されてたけど、それじゃ堂々巡りなんだよね。うわ〜って赤ちゃんみたいに嘆いて(実際に哭いてるわけじゃなくて内心で喚いてる)、そのうち疲れて眠って、起きて、絶望しながらも死ねないままで生き続けるっていうだけ。ばか。

感情に翻弄されちゃうと脳みそが働かなくなっちゃうからバカになっちゃうんだよね。

 

なので、改めてしっかり私は「母の娘」ではなく一人の人間としての「私」を生きて、どれだけ感情に翻弄されても常に「人間としての私」を心に住まわせておく訓練をする決意をしたのと同時に、赤ちゃんみたいにぎゃーぎゃー喚いてるだけじゃなくて死にたいなら死ねるようにしっかりと大人として準備を進めようと思いました。

 

理不尽先制に対抗馬:屁理屈

さて、今朝(早朝)の時点でブログに書こうと思って内容は以上なんだけど、その後の朝、また母が意味わからないことを言ってきて最悪だった。ので、小話追記。

 

これは毒親あるあるなんだろうけど、私が母との間で最悪な気持ちになるときは、いつも、「意味わからない」って思ってるなって(笑)

 

だからやっぱり理不尽なんだよ。

もちろん理不尽であることは知ってたよ。「意味わからない」って最悪な気持ちになったあとに、なぜ私は嫌な気持ちになるんだろうとか何がいけないんだろうとか、何度も考えるから、その度に、「やっぱり母の言っていることは筋が通らない。理不尽だ。論理性がない」っていう結論に至るので、知ってたよ。

でもそんなふうに順番に論理的な思考でひとつひとつ順番にどこがおかしいのかを考える間も無く、一番最初に感情としての反応として「意味わからない!!!」って思っていたのだから、考える必要もなく私は常々理不尽に苛まれていることでこうなちゃったんだなってわかったら笑えてきたよ。(笑えねー)

 

私や妹はよく「そんなの屁理屈だ」とか言われて母にぶちのめされるけど、そりゃ屁理屈かもしれないけど、屁理屈も理屈のひとつじゃん(すでに屁理屈感)。私たちが理屈にこじつけるのは理屈にこじつけなくちゃ生きていけなかったからじゃないの?理不尽ばかりで喚く母のせいなんじゃないの?…なんて絶対母には言えないけど(その後の母の反応で私の心が壊滅する)、また「おまえらはいつも屁理屈ばかりならべる」って言われちゃうね💩

 

残念ながら人間は論理性に欠いている他者と会話はできないんだよね。脳みそ使わない同調ならできるけどね。

私はしっかり生きて、しっかり死のう。

 

おわり!