名前のない生活

何者でもない僕のなんてことない日々

ダメでもイイじゃないか!

〜「ダメじゃダメ」から「私はダメなやつだから」へ〜

考え方を変えれば新しいステップへ進める。ダメだという諦めではなくダメだという受容をしてみたらどうかな、というお話。

ちょこっと書こうと思っただけなのにまた長文になっちゃったよ><;雑記。暇つぶしにどうぞ!

 

※ところどこに良い感じの曲(一応内容に合わせて選曲したやつ)のyoutube埋め込みましたので、長文のお供によければ小休止として聞いてみてください。

ダメダメじゃダメか?

youtu.be  ピノキオピー「胸いっぱいのダメを」

 

前回の記事で“私は普通には生きられない”みたいなことをチラッと書きました。

具体的にどこがどう“普通じゃない”のかはいずれ書けたらいいと思っていますが(普通とは何かみたいな話になりそうなので追い追い…)

今回は“普通に生きられない”人はどうしたらいいのかということについて私が考えていることを書こうと思います。

 

結論から言えば、ダメならダメなりに生きるしかないと思います。

 

“普通”と思われることができないとき、「自分はダメなんじゃないか」と落ち込んだり自分を責めたりして、できないことが積み重なると自己効力感が低下したり自信を失ってしまうこともあると思います。

 

でもですよ、そもそも、なぜダメじゃダメなのか?

 

日本の文化の中で他人に迷惑をかけてはいけないみたいな風潮もありますが、

なぜ迷惑をかけてはいけないのでしょうか。

 

ダメさを許し合えたら…

「ひとはひとりでは生きれない」というのに「迷惑をかけてはいけない」…?

もっと他力を信じて頼ってもいいんじゃないでしょうか。(信頼…)

迷惑掛け合えばいいんじゃないでしょうか。

それぞれができることを、できるときに、できる分だけ…。

 

そうやって助け合えたらいいのにのにな、そしたらきっと優しくなれるのにな…って思いながら私は過ごしています。

 

以前は私も「迷惑をかけないように」とかイッチョマエに考えていましたが、今は、

私はダメなやつなので、迷惑もかけるし、役にも立ちません。と思っています。

 

でもそれでいいじゃないかって思えたら…みんながお互いにそう思えたら、生きやすい社会になるんじゃないかなと思っています。

 

自分を愛さなきゃ他人も愛せない

youtu.be けいおん!桜高軽音部「Don't say "lazy"」

 

私は、愛情というのは受容とも近いものがあると思っていて…

「何ができてもできなくてもいい、できないことができるようになったらいい、できたことができなくなってもいい、なんでもいいよ」

って愛せることが愛情だと思うんです。(無条件の愛)

 

そいういった愛情を他者に対してだけではなく自分自身に向けられたら自分を丸ごと認めて生きていけると思うんです。

ただ、簡単なことではないので、そう思えるようになるには訓練が必要ですけど。

自分も他者も無条件に愛せる、そういう愛情深い社会になったらいいのにな〜!!!!!

 

ダメだと認めた方がイイこともある

youtu.be 100回嘔吐「もう生きてるだけで褒めて頂戴」

 

ダメであることがダメという前提に立つと、たしかにダメ人間はダメなのですが、

ダメでもいいじゃないかと思えればダメであることそのものに悪い価値はなくなると思います。

 

ダメ人間であるということや人より劣っているということが、“悪いことじゃない”としたら、自分がダメ人間であることを認めるのが怖くなくなります。それが大事だと思うんです。

 

自分がダメであることを認めるととても楽になります。

今までとやってることはかわらなくても、自分の心持ちが違うだけで全然違います。

 

私は今までやってもダメなことがあると「やっぱり私はダメだな…」ってイチイチ自分にがっかりしてしまっていたのですが、そもそも自分はダメなんだって思うようになったらダメでも「しかたないな☆」って受け止めて

・どうしたらうまくできるだろうかと自分なりの方法を模索する

・どこがどうできないのか把握してどう人に頼ればいいかを模索する

など、問題解決が次の段階へ進みました。できる人のやり方でできないことを繰り返すのではなく、できない自分としてのやり方を模索できるようになったということです。

 

「普通にできるはずなのにできない自分はダメだ、もっと頑張らなくちゃ」って思っているうちは、同じやり方から抜け出すことができなくて(努力とか気合いでどうにかしようとする脳筋お馬鹿になっていて)非効率的ですし、何より自分自身への(主にこころへの)負荷が大きくなってしまいます。

 

でも「そもそも私はダメなやつなんだから」と思えば、ダメな割によくやったよな、とか、私ができる範囲では最善を尽くせたでしょう…と思えるようになりました。

 

ダメだと諦めるのではなく受容する

重要なことは「私はダメなんだ」と自認することは、諦めではなく受容であるということだと思います。「私はダメだから何やってもダメなんだ…」と考えて欲しいわけじゃなくて、「私はダメだからダメなりにできる方法を探そう」と考えたらいいんじゃないかなって思うのです。

自分が自分をどう評価していても、自分のできることはさほど変わりません。自己評価はパフォーマンスやモチベーションに影響するので、そういう意味で自分をどう評価しているかは大切かもしれませんが、自分自身にとって良いのは「できるはず」と評価することなのか、「できない」と割り切ることなのか、どちらが自分にとって良いのか…考えてみる価値はあるかもしれないですよ。

 

問題のクリア方法はいろいろ

ということで、ダメならさっさとダメだと受容して「ダメなりにできる方法を探す」段階に至ればそれはそれで生きやすくなるんじゃないかと思うのですが、一口に「できる方法を探す」と言っても、「できる」の形はいろいろあります。

たとえば自分ができる方法を探って最低ラインを合格ラインにしてもいいですね。合格の水準も自由に変更しちゃって良いんですよ、自分の人生ですから。それからできる人を頼るのも合理的な方法だと思います。結果的にできていれば自分自身の手で遂行しなくても大丈夫、人脈も実力のうちということで(笑)。それと、ダメなら別のことに尽力しようと諦めるのもまたひとつの手です。その問題を諦めるというのも一つのクリア方法だし、ゴールだと思います。

 

「できない」の例:鉄棒 逆上がり

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たとえば私は逆上がりができないのですが(鉄棒の話)

「私は逆上がりができない」と思っていても、「私は逆上がりができるはずだ、できないのは私の努力がたりないからだ」って思っていても、鉄棒を掴んで逆上がりを試みたところで結果は同じ、体がびろーんと前に伸びちゃうだけで、逆上がりの「さ」にも到達しないような無残な現実が待っています。

 

①「できるはず」の落とし穴

この場合、「できるはず」「努力が足りない」と思えば、逆上がりができる方法と言われているやり方をひたすら繰り返して練習することになります。

…が、「逆上がりのやり方」を解説しているのは逆上がりができる人ということは忘れない方がいいと思います。

 

できる人のやり方でできない人が何かを習得するというのは、

勉強ができるやつに勉強教えてもらっても

「どこがわからないの?」

「どこがわからないのかわからない」

みたいになってしまうように、不毛な結果に終わる可能性もあると思います。

どこが分からないのか分からなかった人にしか「どこが分からないか分からないという」感覚(何が起きているのか)は経験できないと思います。懇切丁寧な人であれば感覚のすり合わせをして、何が起きているのかを把握して教えてもらうこともできると思いますが、「分からなかった人」の方が「分からない人が分かるようになる方法」を考えるのは得意な可能性があると、私はそう思います。「名プレイヤーが名監督になるわけではない」と、まあ、そういうことなのかもしれません。…ちょっと違うかも?(笑)

 

とにかく…もちろん、できる人のやり方は常に一理ありますし、優秀ですから試す価値は大いにあると思います。でも、私が言いたいのはできる人が言う「こうやればできるよ」は、できない人にとって役に立たない可能性があるということです。

 

何でもかんでもすぐ諦めればいいってもんじゃないかもしれないので、まぁ、少なくとも2〜3回試してできないのであれば考えてみる価値はあると思います。「できる」のか「できない」のか、どこができて、どこができないのか。

 

②「できない」としたら

もし、逆上がりができない、という立場で考えれば…ひとつは逆上がり成功を諦めるという手段が出てきます。

実際、「逆上がりができない」と言う人は一定数いますから、体育の授業で何度も試みたのに出来なかったという経験から諦めるというゴールに行き着いている人がたくさんいるんだと思います。

 

逆上がりはできない人もいるというのは結構ポイントになると思います。「できるはずなのに」と信じ込んでいるよりは、「できない人もいる」という知識がある方が「私は出来ない」と諦めるハードルが低くなると思います。

 

そして何より、逆上がりは「できなくてもいい」んですよね。だから比較的、心的負荷が少なく、諦めるという選択ができると思います。

逆上がりできないからって死ぬわけじゃないし、逆上がりで“食っていく”わけじゃない…ですから逆上がりが「できない」ということにさほど恐怖が伴いません。せいぜい体育の成績が悪くなる(これは担当教員の評価基準にもよりますけど)とか、クラスメイトにバカにされるとか、できないのが恥ずかしいとか、モテないとか(?)、悔しいとか…でしょうか。

 

逆上がりができない、という前提に立った上で、それでも逆上がりを成功させたいなら、試行錯誤が必要になります。なぜなら、今まで言われてきた逆上がりの定説は試しても効果がなかったからです。

逆上がりができないという前提に立つくらいですから、逆上がりを成功させるためのやり方等の定説は重ね重ね実践していると思うので、実感としてもこれまで言われた方法が自分にとっては「意味がない」というのは感覚的に分かると思います。

だいたい、逆上がりなんてできる人は最初から軽々しくやっているし、1回目にできなくてもいずれできるようになる人は1回目からおしいところまでいってるわけで、そんな人たちと同じ基準で挑戦しようなんてのはアホです。

 

ということで、自分なりの試行錯誤が必要になります。

たとえば、「逆上がりができるようになる方法」みたいなものを調べ上げて、片端から挑戦してみるのもいいでしょうし、調べ上げて共通する点を分析してさらに自分の逆上がりをしている様子を録画して確認し自分はどの部分ができていないのか擦りあわせていくとか…。より密度を高めて自分はどの部分ができないのかを把握する必要があり、それをクリアするためにはどのような方法が有効なのかを調べたり考えたりして、実践し、トライアンドエラーを繰り返して行くことになると思います。

また、詳しく分析した結果、自分に発生している問題がクリアできないレベルのことであれば諦めるという手段が再発生しますし、クリアに尋常ではない努力が必要となった場合は、自分にとってクリアのために尽力する方がいいのか諦めてその労力を別のことに使う方がいいのか等のコストを考えることにもなると思います。

 

できないと困ることができないからダメ

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長々と逆上がりの話をしましたが、途中でも触れたように、逆上がりは「できなくても困らない」というのがミソです。

逆上がりはできない人はちらほらいるので、あなた自身ができない側の人かもしれないし、あなたができる側の人だとしても小学校の体育の授業を思い返せば圧倒的に「できない」人を目撃して、「できる」という可能性が著しく低いこともあるんだということを経験として知っているんじゃないかと思って、逆上がりの例にしてみました。

 

ということで、逆上がりの例で「マジでできねえ」っていう状態が起こりうることと、その「まじでできねえ」っていうことにどう対処したらいいのかを考えようということを書いたわけですが、

私はダメなんだと自認しなくてはいけない場合はもっと見えづらいもので困っていたり、認めたくないようなことで困っていることも多いと思います。

 

逆上がりはできなくても困らない。だけど、

・文字を読むことができない

・一桁の暗算もできない

・人の顔を見分けられない

・人の名前を全然覚えられない

・朝体を起こすことができない

・夜眠ることができない

・同時に複数のことができない

・一つのことに集中できない

・人の気持ちを察することができない

・スムーズに言葉を発することができない

・右と左がわからない

・情報処理ができない

・片付けられない

・嫌いな食べ物が食べられない

etc…

 

これらのことが、もし、逆上がりができないように、感覚的に「圧倒的に無理すぎる」「できる可能性を微塵も感じない」「努力したいけど何をどう頑張ったらいいのかもわからない」くらい、ほんとにめちゃくちゃ「できない」苦手なことだったら…

 

あれらは生きる上でなんとなく一定の水準を想定されています。勝手にね。多数決的なものですよね。その水準を「普通」とも呼べるかもしれませんが…。

箇条書きにあげた項目は、著しくその傾向が強いと「障害」と認められて社会的なサポートを受けられたり社会的に偏見されたりするものもあると思います。良いんだか悪いんだか…(笑)

 

こういったできないと困ることはできないと認めたくない。…あるいは、本人は認めた方が楽になれる(もしくは認めている、認めたい)のに周囲が諦めさせてくれない(「大丈夫、できるよ」)ということもあるでしょう…。

 

youtu.be ヨルシカ「ヒッチコック」

 

“ダメな私”の方が楽

できない度合いはともかく、いずれにしても「この程度はできるはずだ」という水準に及ばない時…「できるはずだ」って思わずに「できないんだ」って認めた方がいっそ次のステップへ進みやすくなることもあると思います。

 

「できない私がこれをクリアするには他にどんな方法があるだろう」

 

「できない」と認めることで、今まで見向きもしなかった斬新な発想や、一見遠回りの方法やお門違いの方法に目を向け、トライアンドエラーに挑戦できたり、新しいやり方を手に入れられるかも…。

 

そして何より、だよ。

「できるはずなのにできない努力が足りない自分が悪い」と思っていた時には想定もできなかった「できないなりきに頑張ってる」…なんて自分を認めることも可能になるんだから。

 

実際できてるかどうかはどうでもよくて、自分がその自分を認められればいい。

 

自分が自分を認められればそれでいい 

ということですので、頑張れなくてもいい。頑張ることが苦手だと思えばいい。

頑張れなくても最初から「私は頑張れない人なんだ☆」って思っていれば、頑張れないのはおかしくない。頑張れたらすごい。とびきりのご褒美をあげればいい。

 

…私はどの人もみんな頑張って生きていると思っているから「がんばってない」「がんばれない」って思っている人も、本当はその人なりの頑張りをよくよく頑張っていると思うからもしかしたら本当は「できている」のかもしれないけど、他者基準なんてどうでもいい!自分が、どう思うか。それだけでいいよ。

 

できないことがいっぱいで頑張っている人、できない自分を嘆いている人…そんなに悲しまないでほしい…。もう十分だよ、って思うし、幸せになっていいよって思うし、楽していいよって言ってあげたい。

 

きっと誰でもできることもあるし、できないこともある。私もできることもあるし、できないこともたくさある。でもそれでいいじゃないか。

だってできないんだもん、しょうがないじゃん。(笑)

  

ダメならダメなりに

youtu.be 青谷「僕には生きるセンスがない。」  

 

できる人はできない人を馬鹿にするかもしれない。

できない人はできる人に罵倒されたり罵られたりするかもしれない。

でもしょうがない、できないんだもん。

 

とはいえ!私は馬鹿にされるのが嫌いだから(プライドが高い獅子座)

「馬鹿にされる筋合いはない!私は私なりにできることをいつも精一杯やってるし、もし、お前が私として生まれてきたらもっと雑魚な人間になってたぞ、ばーか!!!」って腹が立つこともある(笑)

 

馬鹿にされたり罵られたり迷惑がられるのは腹が立つし悲しいし怖い。

でも、そんな人達ばかりじゃない。良くも悪くもいろんな人がいるから。

だから、できないって認めても大丈夫です。

できない人はできない人同士で「ダメダメだな〜!」って笑いあって生きたっていいし、「それでいいよ」って言ってくれるひとに助けてもらって生きていけばいいし、

 

もし、どうにもならなくなっても、死ぬだけだよ。

 

本当に、本当に、たった一度の人生だから、

今この瞬間、楽しめなければ、幸せじゃなければ…もったいないよ。

ダメな人はダメなりきにダメなままで幸せになってもいいじゃないか!って思うよ。

 

自分にとって良い方向に、頑張りましょう!

 

 youtu.be ヘルニア「取り柄のないクズだって生きてていいだろが」

 

おわり!!