名前のない生活

何者でもない僕のなんてことない日々

社会不適合者はなぜ産まれるのか

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“普通に生きられない人”が産まれてくる理由は“人類に必要だから”説!

 

「どうして生まれてきたんだろう」の問いに対する、

私の感覚に基づくガバガバな希望的観測。

 

☆長文なのでめんどくさかったら「最後に」だけ読めば大体わかります。

 

 

※所々画像挟んだけどググって出てきたやつ勝手に使ってるので問題あったら消すからごめんなさい

 

はじめに

社会不適合者っていう響きにどこかピリリとするような感じもあり、

このブログ記事のタイトルを見たときに

どこかヒヤリとしたものを感じた人もいるかもしれません。

 

でもそんな畏まった話でもないし、

排他的な話でもないし、社会的な話でもなく、

ただ、私は私が考えた結果行き着いたものを書きたいだけです。

だから「ほーん( ˙-˙ )」って感じで気楽に読んでくださいね。

 

記事のタイトルは『社会不適合者はなぜ産まれるのか』ですが

ブログのタイトルが『かな?知らんけど。( ˘ω˘ )』なわけですから、

そこんところ、忘れずによろしくヨ。

このブログの記事は全て『かな?知らんけど。』に包括されるんですから!(笑)

 

どうして生まれてきたんだろうという自問

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さて

社会不適合者って言っても、定義とか知らんし、

社会に適応できない人とか、社会に適応しづらい人とか、

つまり「普通」に生きれない人

「普通」じゃなくて、生きにくさを抱えている人…

社会的な生活に障害を感じている人…

いわばマイノリティ(少数派)についての記事なんですが…

 

「マイノリティ」って言葉を出したときに思い浮かぶものがある人は

それを想像してもらえばいいと思いますけど、、、

“対マイノリティ”に立ったとき(=他者がマイノリティであるとき)、つまり、自身がマイノリティではないとき、マジョリティ(多数派)であるとき…。

「たいへんだね」とか「可哀想に」って思ったり、「助けてあげたい」とか思うこともあると思うけど…

 

自身が“マイノリティ”だったとき…

いろんな不条理があって、来る日も来る日も…。

そんな毎日の中でやっぱりどうしても、ふと、疑問に思うんじゃないか

「どうして生まれてきたんだろう」って。

 

マイノリティ・マジョリティに関わらず、人として生きる限り、

どこかしらで自分の生まれた理由を自問する機会がある人は多いでしょう。

ただその問いに、不条理とか理不尽が入り込んでくると、なんとも…。

「どうして」という疑問が詰問になるというか…

怒りとか悲しみとか絶望みたいなものが翳りを見せると思うのです。

 

多数派を普通と呼ぶのかな

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 マジョリティだとかマイノリティとか言ったところで、

人はそれぞれいろんな要素と成分が複雑に織り混ざってできあがっているので、

翳りを含む哲学的な問い(=ここでは「どうして生まれてきたんだろう」っていう悲しみ)の存在について、どの人も何かしら思い当たるんじゃないか…と思います、知らんけど…。

 

というか、ごめん、

あてはまるかどうか、思ったことあるかどうかとか、知らん。

正直、マジョリティの人の気持ちがわかんないし…、いや、多数派/少数派に限らず、

ひとの気持ちなんてわからんよなぁ。

 

どんなふうに生きてるんだろう。

どんなことを感じてるんだろう。

たぶん私は「普通」には生きれてなくて、

まぁ「普通に生きる」の定義なんて本当はどこにもないからわからないけど。

自身にとっては自身の存在や感覚こそが「当たり前」で「普通」だから、共有している概念のつもりでも独りよがりだったりするよね…。

 

「私は普通には生きれてない」って文面を見たとき、

どんな風に感じましたか?何を想像しましたか?

言っても私は人間社会を大きく逸脱しているわけではないと思います。

それに私にとって私は普通ですから、普通に生きています。平凡、並です。

 

ただ、

学校へ行って、卒業して働いて、結婚して、子育てして…

という人生を「普通」と呼ぶなら私は普通ではない…という意味で、

「普通には生きれていない」と言いました。

「学校へ行って〜」というのは私にとっての「普通」の旧定義です。

そのレールを途中で降りることにしたのですが…とはいえ、

平成も終わり、令和になりましたし、ちょっと古いかな。(笑)

これからどんどん多様化した「個」の時代になっていくでしょうけど、

昭和の名残が今も、平成生まれの私にこびりついています。

 

普通とか、普通じゃないとか…自分がどこに位置してるのかもわからないな…。

普通ってなんだと思いますか。(※返事をしない問いをぶん投げてるだけ)

 

言葉にビビってる

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この記事を読んでいる人が今、何を感じているのか私が知るすべはありません。

でもこの記事のタイトルに興味を惹かれたなら、

何かしら、あるのでしょう、気に留まる理由が…。

 

「普通」とか「普通じゃない」っていう言葉に何を感じるのか。

その尺度に嫌悪を感じる人もいるでしょうし、

普通に生きれないことに負い目を感じている人もいるでしょうし、

普通に生きれない人を疎ましく思う人もいるでしょう。

いろいろですよね。それぞれがそれぞれに感じていいのだから…。

 

私が結論に入る前にこうして、ぐだぐだと

何を言いたいのかわからないような話をしているのは、

…私は言葉の不安定さに怯えていて、だから、

一つの言葉、それぞれに含まれる意味や感覚をなるべく、

できることならばできるかぎり、共有して話をしたいからです。

 

これは私の問題なのですが、たびたび私が何か言ったときに、

私の感じていること(伝えたかったこと)が伝わらないことがあって…。

言葉の概念の共有をどうしても気にしてしまう。

全部は書けないけどそれでも長くなっちゃう(笑)

 

この記事を読んで誰かが傷ついてしまうことはできる限り避けたいから、

この記事を読んで直接傷つくことはもちろんあってほしくないけどこの記事を読んだ人が巡り巡って誰かを傷つけるようなこともなるべく減らしたいのです。

私は何かを押し付けたいわけじゃないのです。

思考回路を一瞬、私と共有して欲しいだけ。

 

私はみんなと共存したいからさ…。

 

 本題:マイノリティは人類に必要説

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さて本題。

社会に適応できなくて不条理に苛まれている人たちの

「どうして生まれてくるんだろう」という問いについてです。

 

適応できないなら。一生苦しいなら。役に立たないなら。

…生まれてくる必要なんてないんじゃないか。

自分はただの失敗作なんじゃないか。

 

…と、考えたことがあるひともいるんじゃないかな。

少なくとも少し前の私はそう考えている人の1人でした。ネガティヴ〜(^_−)−☆

 

理不尽を嘆き、考え続けた結果、

Q:なぜ“普通に生きられない人”が産れてくるのか

A:人類に必要だから

…という希望的推測にたどり着きました。

 

マイノリティは不要な存在なのか?

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マイノリティは人類に必要なのではないかと考えるようになったのは「自然淘汰」の観点によります。

しかしながら、ダーウィンの進化論も否定されていたりもするので、なんとも…あまりに根拠がない憶測ですが…。

 

わかってます。あくまで希望的観測です。夢見がちなお花畑の妄想です。

でも、いいんです。科学的云々は知ったこっちゃありません。

そうでも思わないとやっていられないじゃないか…

だから物語と哲学は存在するんでしょう?

 

さて、自然淘汰的な観点から思索に耽けった話に戻りますが、

もし、「マイノリティは不要な存在だ」と仮定すると、

新しく産まれ続けるのはおかしくないですか?

 

遺伝子云々を言い出せば

マイノリティが子どもを産まなければいいということなのかもしれませんが

そうじゃないですよね

必ずしも遺伝の問題とは言えないと思います。

 

遺伝の問題とは言えない理由はDNAのスイッチとか偶然とかランダムとか…いろいろ思うところはあるのですが、資料を調べるのもめんどくさいので(笑)本当のところはわからないんですけど…

 

少なくとも、

セクシャルマジョリティからセクシャルマイノリティが産まれてるんだから

そういうことでしょう…。

 

⬇︎参考資料としてどうぞ⬇︎

 

“自然”淘汰とは言え、人類は文化的な生き物だから

文化的に淘汰を調整することもある程度可能だと思いますが、

仮に文化的に、意図的に、淘汰しようとしても(=産まなければいいという方法を実践するという意味)、淘汰できないマイノリティがあり、産まれ続けている…

 

ということは!

人類にマイノリティが必要なんじゃないか?

 

…と考える私は嗤われてしまうのでしょうか(笑)

 

生物には多様性が必要という前提

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生物には多様性が必要だと考えられることは多いと思います。

子孫繁栄、種の保存を考えたとき、一気に絶滅することは避けたいから

多様化し、生き残る個体を生み出そうとする…という考えですね。

 

子孫とか種の保存とかを考えたときに、

それこそ同性愛者が異性愛者のように子孫を残すことはできないので

バカバカしい話をしているように思われるかもしれないですが、

重要なのは「多様性」だと思います。

 

マイノリティが産まれ続けるのは人類に「多様性」をもたらすため…?

 

知性や文化も自然の産物

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「人類は文化的な生き物だ」と少し触れましたが、

文化的な生き物にとって文化的であるということは自然なことですね。

 

 

人間とは自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(=《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、他の動物には見られない自然本性を有する動物である

アリストテレス - 人間観

 

「人工」や「文化」は、ときに「自然」の対義として扱われることもありますが、私は人工も文化も自然の一部だと思います。

人工物も文化も、自然が生み出した人類が生み出したものですから。

 

人類と自然(地球)も相対するものとして扱われることも多々ありますが

人類もただの生物であり、結局地球の一部に過ぎないという立場に立てば、

ヒトの意図も自然から生まれたものとも言え、自然そのものであるとも考えられます。

 

ということで、「人工」や「文化」、「意図」「知性」なども全て「自然」である、という見方をしてみてください。あまりに巨大な“統合”思想ですけど….。

 

もし、今まで、“全て一体である”と考えたことがなかったら、脳の片隅にこの発想を留めていただければ…まぁ、思考パターンの豊かさの一助くらいにはなるでしょうか(笑)

 

人類の知性と文化のために…

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なので、マイノリティが人類にもたらす「多様性」は遺伝子だとか生物学的多様性云々だとか…肉体的個体差だけではないと思います。

人類にとって重要な「文化」、そして「文化」を作り上げている「知性」や「思考」、それらにとってもマイノリティが必要だ、と考えることもできるのではないでしょうか。

 

つまり、私が言いたいのは、「マイノリティについて考えることや、マイノリティの存在を考慮することが、人類の文化や知性に必要なのではないか?そのためにマイノリティが生まれ続けるのではないか?」ということです。

 

最後に:本当に伝えたかったこと

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社会で生きているとマイノリティの存在について疎む声や排除したがる声が聞こえてきますよね…少なくとも私はその言葉を聞いたことがあります。

「偏見」というのはそれ自体が悪いものではないと思いますが一般的に言われる「偏見」に含まれる攻撃的ニュアンスを考慮すると、疎ましく思う人や排除したがる人が少なくないことを思い知らされます。

ですから、きっと誰でも、まるで「マジョリティが正しい」とでもいうような圧力を含む主張を耳にしたことがあるんだろうと思われます。

 

そういった風潮の中で、

「マイノリティの存在は、人類に多様性をもたらし、

さらに、人類に有益な文化と知性の獲得のために存在している」

という考えは、買いかぶり過ぎでは?というふうも見え、あまりに社会風潮とそぐわないために、流石に自分としても馬鹿馬鹿しいとは思うのですが…

社会風潮に合わないからと言ってそれが「間違いである」という理由にはなりませんから、“ひとつの可能性”としては、他の各主張と同等に価値がある推測ではないでしょうか…。

 

…と長々と理屈をこねくり回しましたが、素直に言えば、

「マイノリティの存在を

ぞんざいに扱わないでくれ、人類!!」

っていう願いの話です。てへぺろ(^_−)−☆

 

早くみんな違ってみんな良いって認め合える共存社会になったらいいね。

 

うまく生きれない人、しんどいけど頑張って生きていこうな…

 

おわり!

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⬇︎直接関係ないかもだけど興味があればどうぞ。

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