名前のない生活

何者でもない僕のなんてことない日々

部屋が片付けられないけど病院行った方がいいかな

こんにちは、ごきげんいかがですか。

私は連日片付けができない虚しさで途方に暮れています。

相談!暗い!!!

 

書き進めたら思ったよりじめった内容になってしまった。ネガティブな話が嫌いな人は読まない方がいいです。ブラウザバック推奨。さよなら、お元気で。ノシ

 

はい。

 

どちゃくそ散らかった家に暮らしているんですが、片付けないのではなく片付けられないのだ。

片付けできる人には片付けできないという意味がわからないかもしれないんだけど、片付けができないとはどういうことかということはまた別に機会に記事にできたらいいかと思います。今回はとりあえず「病的に片付けができなくて生活に支障をきたしているレベルの人がなんかごちゃごちゃ言ってんな」って思いながら記事を読んでもらえればいいです。

 

私は記憶ある限り片付けできたことないし、2〜3日潰してできたとしても30分で元通り散らかるんですわ。まじくそ。

それでも小学生くらいのころはおもちゃと学校のものしかマイアイテムがなかったので本は本棚に入れればいいし、おもちゃはおもちゃ箱に入れればいいし、なんか大事な手紙とかは親が管理していたし、何とか稀に奇跡的に部屋を片付けることができたこともあるのですが(それでもやはり教科書は失くすのだ)、歳を重ねるごとに困難極まれること天井を知らず…。いや、ほんとむりなんですけど…。

 

で、いろいろありまして(割愛)、最近流行りの(w)ADHDのきらいがあるのではないかと思うようになりました。って言っても3〜4年前から思ってるんだけど。

「いろいろありまして」に割愛した部分は「片付けできない」を説明する記事を書くときに一緒に書けばいいかと。今は長くなるのでカットです。

 

ADHDかどうか、もしそうだとしても性質が変わるわけじゃないしどうでもいいやって思ったり、それでもやっぱりしんどいから病院行こうかな、でも行ったところで診断つかないかもしれないし、でもでもでも…gdgdエンドレス!!

 

でももう、ずっと目覚めた瞬間から眠る瞬間まで、頭の中がごっちゃごちゃごちゃごちゃ、多層的で疲れる。無理、もう無理…マジ無理…。

 

お薬は全員に効くわけじゃないらしいんですけど、薬効いて頭の中がクリアになったという人もいるので、とりあえず薬飲みたい…。効くかどうかわからないけど、試しに飲ませてほしい…。血液検査嫌だけど、頭の中のごっちゃごちゃごちゃちゃが楽になるなら注射でも何でも我慢するからさぁ…。

 

でもやっぱりグレーゾーンだと微妙らしい。なんか、大人の発達障害の記事が載った雑誌(←ちょっと古いやつ)を昨日読み直していたら、「黒寄りのグレーですねって言って薬は処方されませんでした」って文章を見て絶望。

まあ、医者にもよるだろうけどね。診断名つけるかどうかも医者によるし、薬の使い方も医者による。楽になれるならとりあえず薬飲ませてくれねえかな、とは思うけど。考えられる正常な脳みそになってからこれからのことを考えらせてくれ。といっても、薬だけ渡されてじゃあお大事にって言われても「え、それで、わたしどうやって生きていけばいいんですか」とは思うけども。

 

そもそも自分が発達障害にあたるのかどうか。病院に行くより医者が家に来てくれれば話が早いと思うんですけどね。どうかんがえてもうちの状態は異常。私に発達障害があるとしたら、どうせ親にもあるんでしょう。そうじゃなかったらこんな家になってないよね、我が家。

 

障害っていうのは本人やその周囲の人が困っていれば障害と言えると思うけど、その点私はどうなのか、客観的に(ていうか医者から)見たときに、私の状態は生活に支障があるのか。

 

もしくは甘えなのか!?

 

うるせえ。甘えだろうと何だろうと…困ってる気持ちまで無かったことにしないでくれ…。甘えなんだったら甘えちゃうっていうことが障害ですねってことにしてくれ…。

 

甘えなのか、できない私がいけないのか、頑張れない私がいけないのか問題あるあるあるある…。うるせえ!私はつらいんだよ…お前もつらいんならそれでいいだろうが…。他人の決めた尺度でしんどさを決めないでくれ。生きていけないんだ。

おかしいよこんなの…

 

だいたい、ほら、おかしいでしょ!情緒が不安定なんだよ、ずっと!永遠に思春期なのか私は!思考回路が飛び散ってんだよ!!!ごちゃごちゃ、あっちにいったりこっちにいったり、それで?なんの話だっけ!?!?

 

 ほんまこれ。

 

それで、で、で、病院に行った方がいいかな、っていう相談。

うちうちに聞いているの、私の言っていることがわかる人に聞いてるの。「みんなたいへんだよ」とかいうのいらないから。

 

病院に尻込みしてる理由はあるんです。昔通ったことがある、心療内科に。それで、なんもならなかったんだよ。

まあ、薬は処方されてるけどね。なんかちがうなっていうか、私が困っていることを医者は理解していない気がしてた、なんとなく。それで、薬飲んでもよくならない。「無気力」「しにたい」っていうので行ったので、まぁうつ病に出すようなお薬をもぐもぐすることになったんだけど、なぜ私が「無気力」なのか「しにたいのか」という点を考えると鬱はちょっとなんかちがう。うつ病が「風邪」なら、私は物心ついたときからずっと風邪をひいていることになる。肺炎じゃん、死ぬよ?

病院なんてろくに話聞いてくれないし、アセスメントもあったもんじゃねえ。という印象。ちなみに病院は2箇所行ってます。 

 

大学4年くらいになって「いろいろあって」、『片づけられない女たち』という本を読んで、私が困っていたのは鬱だからじゃなくて注意力が正常じゃなかったからなのかもしれない!?!!?と思うようになり、すっきり。ガッテン。納得。わかる、そういう感じする、という感覚になったのだ。

だけど、どんなに直感的に「それだーーー!」ってなったとしても、それが数年越しで死に際の思いだとしても、素人判断だし…。

 

また病院にいってうつ病の薬出されて帰されるなんて嫌だ。副作用でむしろ状況悪化したりもあったし…。かといって「あなたは普通ですよ」って何事もなく家に返されてもつらい。

 

現状問題があるかどうか、ということが問題だと思う。判断材料。

さて、私の生活に問題はあるのか…問題はない、とうっかり言いそうになるけど、なくなかったわ。社会に適応できていたらニートみたいな生活してなかった。親に甘えてスネかじって生かしてもらえているから毎日自分を呪いながら今こうしてブログを書いているけど、もし親がいなかったら死ぬし、親が死んだら死ぬ。生活保護は終わりのない地獄への入り口な気がするから、地獄で生きるくらいなら死んだ方がいいな〜。

いずれにせよ常に「ダメだったら死のう」という気持ちで生きていることが「健常」なのであれば日本がおかしいか人間がおかしい。

 

何が問題か考えた。

私は何が心配で、何に困っていて、何が解決すればいいのか。そこに薬や自分自身の状態変化がかかわってくるなら病院に行く意味があるということだ。

心配なのはお金、困っているのは生活。お金は今は親に食わせてもらってるから現状の問題からは外していいとして(?)次に「万が一、仮に、何かしらの方法で金銭面での後ろ盾が得られたら私は困難がなくなるのか?」と考える。答えはNOだった。どれだけお金があって将来不安がなくなっても、私は常に混乱している状態で生きていたいと思えないし、毎日散らかった部屋で呆然と立ち尽くす日々を送りたくなんてない。もし…薬やら何やらで、自分の混乱状態が改善して、脳の霧が晴れ、思考がクリアになるのなら…それは望ましいことだ。私の全てのために。

と考えるとやはり、病院か…。

 

甘えだと言われたら、普通だと言われたら、私が混乱していることを理解されなかったら…。つらいから、病院に行くのが怖い。

万全で健常だからそのままで生きていきなさいと言われてしまったら私は生きていけない。医者のお墨付きで自殺しないといけない。

できれば死にたくないけど、死んだ方がいいのかな。死ねたら悩まなくていいんだけどなぁ。

 

“ガイジ”の命の価値についてもいろんな価値観や感想があるだろう。

私は何の役にも立たないポンコツマンだから明らかに害であり存在に利益がない…社会にとって安直な生産性が無いのだけど、良いんだか悪いんだかはわからないけど私の家族は私に死んでほしいとは思っていないようです。

でも役に立たない奴は死ねって思う人もいるだろうし、親だって私に死んでほしいとは思っていなくても「働かざる者食うべからず」とは思っているので、しかし私が私である以上“働かざる者”にしかなれないから私は永遠に本当は“食うべからず”なのではないか。働かざるというか、働けずというか…。私の中で起こっていることは外には見えないので、どう見えるかが評価の全てだけど。

 

『片づけられない女たち』という本が大いに参考になったのですが…引用します。

カエルを冷たい水に入れて、じわじわと加熱していけば、カエルは危険に気づかず、逃げ遅れてゆでられてしまう。熱い湯に放り込まれたのなら、飛び出して助かるかもしれないのに。

未診断のADD女性の中にも、このカエルのように生きている人たちがいる。自分がどれほど努力しているか、気がついていない。単に〈破綻せずにすむ〉だけのために法外なエネルギーを注ぎ込んでいることを自覚していない。ただ普通に生活するだけのことが、こうまで大変なはずないということを知らないのだから。「何かおかしい。こんなはずではない」と思った時には、すっかり消耗し、落ち込んで、身動きが取れなくなっている。ぬるま湯でゆでられたカエルと同じで、逃げ遅れてしまったのだ。

未診断のADDを抱えて成長した人の感覚は、〈これが正常〉ということを判断するセンサーが働いていない状態に似ている。生まれてこのかた、首まで水に浸かって、これ以上沈まないように泳ぐだけの生活しか知らないので、どのくらいの努力が順当なのかを測る体内センサーの設定が完全におかしくなっている。 

 この「気づかずぬるま湯で茹でられてしまうカエル」「首まで水につかってこれ以上沈まないように泳ぐだけの生活」という表現が、自分の感じていることはこういう言葉にすれば人に伝わる言語としてなりえるんだ!!!という感動がありました。ずっと、なんて言ったらいいのかわからなかった。

この本を読むまで混乱していることも、「混乱している」と表現すればいいということを知らずにいた。「わからない。わからなくなっちゃう。なんでかわからないけど、わからないの!」ってバタバタした言葉しか言えなかった。

「何かおかしい」っていうのはずっと思ってて、小学生高学年か、少なくとも中学生のころには思っていた。「何かおかしい、みんなも本当にこうなの?」っていう違和感というか…。首まで水に浸かっていても、息ができてるので「私は大丈夫」と思わないといけないのかと思っていた。この本を読んで初めて、全員が全員首まで水に浸かっているわけじゃないんだって知った。

 

引用のつづき↓

しかし悲しいかな、彼女たちには、自分の感覚を現実に照らしてチェックする暇がない。溺れないように水を掻くのと、ボロを隠すのとで忙しいのだから。〈溺れないこと〉が唯一の目標になっていて、溺れずにすんでいるだけで「けっこううまくいってるのね」と思っている。〈快適な生活〉ではなく「何とかやっていけるわ」「これくらいがんばれる」「大丈夫」…。確かに彼女たちは何とかやっていけるだろう。何とか切り抜け、とりつくろい、あるいは、食べ物やアルコール、ドラッグなどで苦しさを紛らわすこともできるだろう。(中略)日常生活を破綻させないことが第一目標になってしまい、友達や家族と付き合うこと、やりがいのある仕事をすること、余暇を他の済むことなどは犠牲になることもある。

 快適な生活なんてこの世にあるなんて思ってもみなかった。溺れないように…綱渡りのように一歩も足を踏み外してはいけない緊張感のなかで、「快適に生きる」なんて目標があることなんて…。

中高生の頃は「ダメ絶対」という感じのドラッグの講話があったりしましたが、私はあの時間には困りました。そんなにドラッグの話をしないでほしい。ドラッグで、たとえそのあと地獄を見ることになっても、一瞬でも楽しい気持ちになれるなら…って思わずにはいられなかった。ドラッグの存在を私に教えないで欲しかった。もちろんドラッグは使わずに生きてきましたが(使ってたらさすがに話題にする度胸はないわ)、田舎には入手ルートがないし…。でも都会だったらどうだったかな、私は。そのあと地獄でも、地獄の渦中にいる人間からしたら一度でも天国拝めるならかまわないでしょう。話逸れた。

 

何の話だっけ。

病院行った方がいいかなっていう話だ。

行った方がいいだろうな。行ってみて考えればいいことだ、わかる。でもそれができないから困っとんじゃ。こわい。自分の話を誰かにするのは怖い。なんて言ったらいいかわからなくなって、けっきょく見当違いなこと言って、「一番はそれじゃなくて」って思いながら全然違う方へベラベラいっちゃって、見当違いなリアクションが返ってきて死にたくなるあるある。死にたくなりたくない。

 

『片づけられない女たち』は永遠に「あ〜これ、それ、ほんとこれ〜〜〜」っていう嵐だったので、おすすすめ。

行った病院の医者がこの本を読んだことがあれば話が早いんだけどな。「これです、まさにこれ、95%該当しています。」って言えばいいだけだから。

 

5000文字費やしても腹くくれず。

この調子ならもうしばらくはぐだっているんだろな。

相談ていうか壁打ちだな。

 

おわり!