名前のない生活

何者でもない僕のなんてことない日々

異質であることを恐れずに居たい

※ひとりごと垂れ流し。

いわゆる「空気を読む」ことについて、徒然なるままに。

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空気を読むことと“自分”であること

私は忖度って思いやりでもあると思うから、完全に悪いとは思わないし、心地よい場を作るために大切なことでもあると思うんです。同時に、押し付けたり求めたりしてはいけないとは思うし、ひとりよがりじゃだめだから難しいことではあると思うけれど。

 

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だけど自分がその場において異質になることを恐れずに居たいとも思いました。それは私が“自由な心”でいるための望みでもあるけど、それだけじゃなくて、私が求めている理想の社会を築く上でもとても重要なことだと思ったから。

「空気を読むことは悪いことじゃないと思うけど、空気を読むことに囚われたくない」ということ。今回はこれについて話しますね。

 

囚われたくないとは

囚われたくないのは、心(気持ち)とか、意識とか、意思。

話すと長くなるから今は詳しく話さないけど、自分の気持ちや意識や意思を、自分のものである、と認識していることって非常に重要だと思います。

つまり、常に自分自身の感じることや思うことに対して「私が」「私の」「私は」と認識しているということ(=アイメッセージであること)。

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それがあってこそ思いやりが成り立つと思うし、それなしに対等で平等で公正で健全な人間関係って築けないと私は思っています。

 

とにかく、「囚われない」とか「自分を離さない」ということは私にとって重要なことのひとつなんです。その「囚われない」ということが「理想の社会のために」なるとはどういうことかと言いますと…。

 

前置きとして:私の大志

まず、前置きとして。私の理想の社会…大きな夢としては、世界平和です。

(私の望む世界平和とは単に「戦争のない世界」ではなく、端的に言うと「全員が安心してぐっすり眠れる状態」が平和な世界だと思っていますが平和の定義について話すと長くなってしまうので端折ります。)

「戦争」とか「平和」とかというワードが出てきたときに「大げさだなぁ」と感じるかもしれませんが、私は常々「(私の大志である)“世界平和”を実現するために今自分にできることは何か…」と考えているので、今回もその前提があっての話になるということを知っておいて欲しかったので前置きとしてこの話をしました。

 

私の言う「平和な世界」は「戦争のない世界」とイコールではないとは言いましたが、それは戦争するのは仕方ないとかそういう話ではなく、むしろ、戦争などもってのほか!!ということです。「戦争は当然なくす。でも戦争がなくなればそれでいいということではない。」ということなので、まず世界平和に近づくためのステップとして戦争をなくすのは必須です。戦争をなくすためには戦争をしないことが必須です。

戦争は国同士でのいざこざなので、政治家でも金持ちでもない何も権力を持たない私が影響できることはありません。でも、戦争をなくすためには戦争を知ることが大切だし、武力や権力で物を言わないようにするとか、常に全ての人の人権を意識するとか…そうゆう誰にでもできることがあると思います。私は、無謀だとしても、自分でもできる小さなことを続けていきたい…。諦めたら試合終了だと思うので。

 

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集英社発行JC スラムダンク8巻145Pより引用

 

前置きが長引きましたが、ここで本題に戻ります。本題としては、「囚われない」状態で居ること私の大志=平和な世界=理想の社会のために今自分ができることの一つである、という話がしたいのです。「囚われない」を他の言葉で言うと「同調しない」ということ、かな…?

 

同調はうっかり“間違い”を生む

同調って怖いことだなって思ったんです。空気を読むとか忖度するってお互いが心地よいと感じる場にするために役に立つことだとは思いますが、一歩間違えちゃうと危険。同調するものが間違っているものだったら…。

私は絶対的な正解も間違いもないと思います。「間違い」というのは、私にとっての間違いです。私の大志は世界平和ですから、世界平和に背く行動は私にとって間違った選択です。必ずしもみんながみんな、世界平和を望んで居るわけではないので、正しいとか間違いとかはそれぞれの価値観や理念に基づいて判断すればいいと思います。

問題は、迂闊な同調うっかり各々の理念に反する可能性を生んでしまう…ということです。

 

「個を無くす」のは危険

同調とか空気を読むって、微細に気をつけていないと、うっかり、本当にうっかり、ちょっとした気の緩みで自分が消えてしまうと思います。

「個を無くす」って危ないことなんですよ。心理学を勉強して知ったことなのでこれも長くなるので端折りますが、個を無くすと支配しやすくなるんですって。例えば学校で揃いの制服を着せて同じような格好や行動をさせるじゃないですか。あれは管理しやすいからです。全員が自由に個性爆発してたら統制なんて取れないから、個を無くすんです。奴隷から名前を奪って番号で呼ぶのもそうです。個を無くすってそういうことなんです。間違うと非道に転落してしまう危険行為なんですよね。こわいこわい…。

 

同調する時って個を無くしてしまう時があると思います。自分を手放してしまうとき。自分がどうしたいか、どう思うかっていうことじゃなくて、その場において自分がどうあるべきか…を考えてしまう。主語が自分じゃなくなるので、自分が自分の意思を手放している…それは個を無くすことと同じだと私は思います。だからうっかりするととても危険な行為。

 

問題はうっかり起きるという点

うっかりうっかり、と連発していますが、私が衝撃を受けた理由がここにあります。自分の意思を持って個を手放したのではなく、うっかり気づかない間に個を手放している瞬間があるということに気づいて、怖いと感じました。

空気を読むなんていうととても日本的な社会文化みたいな感じがしないでもないですが、要は集団心理です。どこでも起こりうることです。たとえば、集団無知が認知されるようになった有名な事件はニューヨーク市で起きた事件ですから。

vaience.com

 

右に倣えとか、郷に入れば郷に従えとか。それも人間コミュニティで生き抜くために大切なことではあると思います。

 

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でも迂闊な同調はキティ事件みないなことを起こしかねない。自分が自分を手放したことで非道なことがまかり通ってしまうんです。「自分が加害者になりかねないこと」が、うっかり、いつでも、起こりうる…と気づいて愕然としました。

 

空気を読もうとしている自分がいた

ちなみに、ハッとしたのはバスの中でした。

なんてこともない車中だったのですが、人が乗り降りするたびに自分が「周りの人がどう動こうとしているか」という自分以外の人間の動向や意思…つまりその「場」を強く意識しているということに気がつきました。

バス移動の最中その場にいる人がなるべく皆快適に過ごしてほしいという気持ちがあるために自分自身の行動をその場に合わせて選択しようとしているだけなので、それ自体は危ないことではないと思うんですが、でも自分が自分を手放していることに気づいてハッとした…ということです。

 

だって…もしも、これが戦争への流れだったとしたら…?

変わりゆく法律や国のあり方、社会情勢、人々の意思に、自分は飲み込まれずに居られるだろうか。「あなたがそう思うのもわかる、でも私は…」と常に自分を持って居られるだろうか。そうあってほしい自分とは裏腹に自信を持てない自分がいました。私は日頃から集団にいると自分の意思だけでは動けないことが多いから…。

 

日常的に自分を手放している 

困っている人がいるときに声をかけようか、声をかけないほうがいいだろうか…、席を譲ろうか、必要ないだろうか…、不要な声かけでむしろその人がここに居づらい気持ちになってしまうんじゃないか…などなど。そうゆう場面でいろんなことを意識してしまって迷った挙句動けないまま時間が過ぎてしまうことが多いんです。チキンで優柔不断。

そうゆう自分をいつも嫌だなって思っているんですけど、この迷っている時って自分以外の人がどう思うか、考えたってわからないことを考えようとしている。主語が私じゃなくなっているんですよね…。自分を手放しているから決められない。

こんなふうに自分を手放している瞬間がたくさんあることを自分が一番知っているので「常に私は私の意思に背かない」と自信を持って断言することができません。情けないですね。

 

異質になる恐怖と自分が自分である自在感

私はみんながより快適であってほしいと思うから、最初に触れたように忖度はないほうがいいとは言えないけれど、でも同調して個を失うことはとても怖いことだから常に自分の意思を持っていたい、とも思います。

それを考えた時に、「空気を読む」って私にとっては「その場において異質にならないようにしよう」と努めることと近いと思いました。だから「異質になることを恐れずに居たい」と思いました。自分が常に自分であると、場合によっては場において異質な存在になってしまうかもしれません。安全を確保しようとする人間社会において異質であるということは排除されてしまうかもしれない、つまり、自分の身に危険が及ぶ行為かもしれないから、本能的に恐れてしまうけれど、でも、想像してみると常に自分が自分であるということはとても安心して清々しい気持ちでもあると思いました。

 

忖度と自由意志は共存できる

「私はどうしたい?」と自分にフォーカスする…つまり、「主語を自分に戻す」と、答えはシンプルです。

例えば困っている人に声かけしようかどうしようか迷っている時なら、自分の思いは「困っているなら助けたい」、それだけ。自分の意思を自分が握ったら「お手伝いしますか?お困りなら手を貸したいと思いまして。」と声をかければいいだけです。慮る(おもんばかる)ことと、自分を持つことは相反することではありません

 

空気を読む、忖度する、配慮する…、それらは時に、右に倣う行動や郷に入れば郷に従うということと同じような選択を取ることが必要とされるかもしれないけれど、どんな選択をするのも常に「自分」であること、常に自分の意思は自分が持つこと、それが大事だと思います。

 

一見変わらないけど大きな変化

内側の見えないところ…考え方とか意識の問題なので多くの場合行動は変わらないかもしれません。だからどうでもいいと思う人もいるかもしれませんが、それを「どうでもいい」と片付けることでうっかり戦争になるかもしれないんですよ…。自分の意思を手放し、個を失い、自分を集団に委ねること…、こんな恐ろしいことがうっかり!起きてしまうかもしれないってこと、私は重要なことだと思いました。できれば多くの人に自分が自分を持ち続けることを大切なことだと思ってもらえたら嬉しいなぁ、と思います。

 

みんなが自分が自分を持ち続けていたら、とても生きやすい社会になると思いますよ。自分の責任を自分が持っている自在感は伸びやかで自由な気持ちを伴うと思うし、誰かの責任を押し付けられる心配をしないでいいから各々が他人に対して寛容になれると思うんですね。

 

とまぁ、そんな徒然、垂れ流しでございました。長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

おわり!