こんにちは![考える葦]です。
みなさま、いかがお過ごしですか?ハッピーですか?
今回は、「画面の向こうに人がいる」という言葉の意味について考えてみたので、ご興味があればお付き合いくださいまし( ˘ω˘ )
SNSなどの発達もあり、インターネット上で不特定多数の人とコミュニケーションを取ることが格段に増えていると思います。
インターネットの“匿名性”は忖度不要な気軽なコミュニケーションが可能になる一方で、他者を傷つける過激な発言、配慮の足りない発言を誘発しかねない側面もあると思います。
この現状を見かねて「画面の向こうに人間がいるということを忘れてはいけません!」というような旨の主張に出会うことが度々あります。
「画面の向こうに人がいるんだから、壁打ちなんてものはそもそも存在しない」という主張に出会ったこともありました。
*壁打ちとは?
スポーツなどでは、壁に向かってボールを打ち続けるという意味で『壁打ち』という言葉がありますが、ツイッターの中でも同じように、フォロー・フォロワーがいないアカウントで、ひたすら独り言をつぶやくというものです。
☆“壁打ち”補足
引用したサイトには「フォロー・フォロワーがいないアカウントで」と書いてありますが、現在使われている“壁打ち”という言葉はその限りではないと思います。
フォロー・フォロワーがいても「壁打ちアカウントです」と明記しているアカウントは多く目にしますので、“壁打ち”とはあくまで気分の問題、気持ちの持ち様なのかな、と思っています。
誰かからの応答・反応・リアクション・レスポンス・評価…を求めていない、「壁に向かって一人で喋っているだけだから気にしないで」というスタンスを明示するために“壁打ち”という言葉を使っているのではないかな?と思うのです。
ということで個人的には“壁打ちのスタンスでつぶやくこと”を“壁打ち”または“壁打ちの精神”などと呼んでいたりします(笑)
たしかに、「画面の向こうに人がいること」を「常に意識していろ」というのは、ごもっともな意見ですね。インターネットとはいえ、ひとつひとつの書き込みをしているのはネットに沸いてる架空の生き物ではなく、生身の人間です。
(※BOTやAIアカウントは想定せずに話を展開していきますのでそのつもりでお読みくださいね)
「画面の向こうに生身の人間がいるということを常に忘れてはいけない」というのは、確かにごもっともな意見なのですが、私はどうにもその主張を受け入れることに息苦しさを感じていました…。
その発言を心に留めてからは、インターネットでの自分の発言や、インターネットの使い方、SNSでの話題など…「誰にでも受け入れられる話題・発言とはなんだろう」と考えあぐね、時にはビクビクしながら、窮屈な思いをしていました。
でも長らく考えていた結果、私は「画面の向こうに人がいる」ということは、「全ての人を満足させる発言をしろ」という意味ではないということに気がつきました。
そのことについて説明していきたいと思います( ˘ω˘ )
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「画面の向こうに人がいる」という主張を聞いてからは、改めて、「ネット上のコミュニケーションも対人コミュニケーションである」と身を引き締めようと思いました。
…が、どうも窮屈でならない。
リアルでの人間関係では感じたことのない、自身の発言に非常に大きな“不自由さ”を感じました。
では一体インターネット上でのコミュニケーションと、現実世界でのコミュニケーションで、何が違うのか。なぜ私はこんなにもネット上のコミュニケーションに“困難さ”や“難しさ”を感じるのか。
それは、ネットの特徴でもある“対、不特定多数”という側面が鍵でした。
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リアルでの対人コミュニケーションは目の前に特定の相手がいます。なので、その相手のことを一身に配慮すれば、精一杯の配慮をしたコミュニケーションが成り立ち、相手のことを知っていれば知っているほどスムーズなコミュニケーションが取れます。
相手の性格や好き嫌いを知っていれば、相手の気を害する不用意な発言を避けられますよね。
DMや鍵をつけるなど、閉じたコミュニケーションをする場合はリアルのやり取りに類似した対人コミュニケーション、つまり特定の相手を意識したコミュニケーションも可能かもしれませんが、インターネット上という開かれた場所での不特定多数に対する発言では、そうはいきません。
「画面の向こうに人がいる」のはわかります。しかし、「画面の向こうに誰がいるのか」がわからないのです。「誰がいるのかわからない」というのは「誰も彼もが居る」という状態と同じことになります。
画面の向こうの相手を特定できないので「誰でも」いる可能性があるのです。
たとえ、SNS上でのやり取りで、タイムラインに見えている人に対して言葉を投げかけているつもりでも「ROMる」なんて言葉もあるように、こちらからは存在を確認できないけれど一方的にこちらのやり取りを見ている人もいたり、検索などの機能によって時間を超えて知らない人が自分の発言にアクセスすることができてしまいます。
*ROMるとは
「romる(ロムる)」のromは「read only member」の頭文字から成る言葉です。和製英語で、意味は「読むだけの人」です。コメントや書き込みをせず、ただやり取りを読むだけの行為を「romる」と言います。
このように、どんな人がどこからどのように、延いてはどのタイミングで自分の発言を目にするかわからない…。
その特徴もありまして、インターネット上での情報開示には気をつけましょうね、なんてアナウンスが飛び交った時期もありますね。誰が見るかわからないインターネットではうっかり個人情報を投稿してしまうと悪意ある人がその情報にアクセスしてしまうことも容易なのだから、ということです。
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このネット上のコミュニケーションの特徴を痛感した結果、「画面の向こうに人がいることを常に意識しなさい」という言葉は、「“誰が”いるかわからない中で、その“誰か”を意識しなくてはいけない」という課題として私に重くのしかかってきました。
「画面の向こうに人がいることを意識する」という言葉が私の中で「想定しうる全ての“誰か”を配慮しなくてはいけない」という意味になってしまい、ネット上での発言の大きな足かせとなり、とても息苦しくなってしまったんですね。
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というのも、リアルなコミュニケーション…つまり、誰かと話をするとき、私は無意識的に「相手を楽しませよう」と心がけているようです。楽しませられているかは定かではありませんが(笑)あらためてコミュニケーションについて考えると、私と話して「よかった」「楽しかった」と思ってほしいという気持ちがあることに気づきました。
(相手の中に自分の存在価値を見出して欲しいのかもしれません。)
ネット上のやり取りを強く“対人”だと認識することで、「楽しませたい」というリアルでの“対人コミュニケーション”の在り方を、不特定多数を相手取ったインターネット上の“対人コミュニケーション”に当てはめてしまい、かなり、苦しい状況になりました。
相手が“誰か”わからないので「楽しませよう」という気持ちでの発言には限界があります。何を楽しいと感じるのか、何に心地よさを感じるのか…人によって違うからです。
リアルでの私のコミュニケーション方法をネットでのコミュニケーションにあてはめたことで、そんな千差万別であるはずの全ての“誰か”…つまり“人類”に「せめて楽しんでもらえるように」「せめて気を害さないように」と配慮して発言しなくてはいけないという心構えになってしまいました。
でも誰にでも受けいられられる発言なんて無理ですよね。
千差万別、十人十色。きっと神にも不可能だと思います(笑)
ということで、「画面の向こうに人がいる」という発言を受けて「ネット上でのやり取りも“対人”である」と強く意識した結果、うっかり“リアルでのコミュニケーション手法”をインターネット上でのコミュニケーションに転用してしまったので、発言の不自由さなど、私自身に窮屈な足枷を付けることになってしまったのです…。
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では、「画面の向こうに人がいる」という言葉の意味をどう受け止めればいいのでしょうか。
おそらくそれは、感覚的にいえば「店員も人間だ」という言葉とほとんど同じだと理解すればいいのかもしれません。「人として最低限の思いやりは失くさずにいましょう」という意味だ…ということです。
リアルでの対話とは違う、インターネット上で発言の特徴かつ留意点のひとつは「不特定多数に向けた“公の場での発言”である」という点にありますが、
インターネットでの不特定多数に向けた発言は、受け取る側が“見るかどうかを選べる”というのも、リアルの対人コミュニケーションと大きく異なる点です。
つまり、インターネットにおけるコミュニケーションのポイントは「自身の発言が不特定多数に届いてしまう」と同時に「相手の発言を受け取るかどうか選べる」というところにあります。
「黙ってブロック」なんて言葉が飛び交うこともあるように、“ブロック”や“ミュート”、“NG登録”など、各サービスでユーザーには不快な発言を「見ないようにする」手段が用意されています。このことから逆に発言をする際には「見たくない人にはブロックしてもらえばいい」と考えることもできます。
リアルな対人コミュニケーションでは、目の前にいる相手を突然目の前から消すことはできませんが、インターネットではそれが可能なのです。
不快だとか、面白くないと思ったら、見なければ良いのです。私の発言が不快なら、見ないようにしてもらえばいいのです。
インターネットではリアルと違い相手にも選択肢があるという点から、ネットでの発言はリアルでの対人コミュニケーションほどの緻密な配慮は不要だと考えられます。
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「画面の向こうに人がいる」というのは「匿名性の盾に隠れて悪意のある発言をしないようにしましょう」とか「人間として最低限の思いやりを持っていましょう」というような意味であって、「誰が見ても不快にならない無難で主張のない安全で楽しい話題を提供しましょう」という意味ではなかったんですね。…あたりまえですけど。
あたりまですけど!!!(笑)
ここまで読んでくれたあなたは多分今頃「知ってたwww」って思ってるでしょう?
でも私はうっかり対人とはいえどリアルとネットではコミュニケーションの形が違うということを見失ってしまっていたんですね。持ち前のエンターテイメント精神によって☆(冗談です)
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最低限の配慮さえしていれば、発言は自由なのです。
みんなに面白いと思ってもらう必要はない。
興味がない・つまらない、と思っている人は私の発言を見なければいいのです。
(「つまらない」とか「下手」とか「無意味」とか、余計なお世話な文句を言って来る人がいたらそれは文句を言ってくる方が悪いのでブロックしてやりましょう。笑)
“不快になる人もいるだろうと想定しうるもの”を晒す時には注意喚起をしておけばいいのです。見るか見ないかはあなた次第ということで、それでも見るなら責任は見る方にあるのです。
(ということは注意喚起の段階を踏まずにいきなり内容が人前に曝け出されてしまう形式のツールを使うときは、その特性を留意してツールを使う必要がありそうですね。)
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では「人として最低限の配慮」に求められる配慮はどの程度の配慮なのか…。
それはきっと私が勘違いしていたような“最低限のエンターテイメント性”という意味ではありませんね(笑)
おそらく、感覚的にいえば「名前と顔を晒して堂々と発言できることだけ言う」ということになるのかな、と思います。
(世の中には堂々と人を傷つける人もいるので、それはもうしかたないとして、)
「ネットの匿名性によって緩んだ自制心のせいで不用意な発言をしないようにしよう」ということなのかなと思います。「リアルだろうとネットだろうと自分自身のあり方を違わないようにしましょう」ということなのでしょうね。
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ネットもリアルも同じ自分であると自覚しましょうという話になるわけですが、ただ、ネットはリアルとは異なり、匿名性によってある意味“無礼講”なコミュニケーションが取れる場所でもあると思います。
リアルでは萎縮してしまう人見知りで気にしいの私は、匿名性があることで無邪気にはしゃいで楽しくお喋りできることもあるので、これはネットの良い面だと思います。
対面でのコミュニケーションが円滑にできなくてもメールやネットなど、文面だと上手に気持ちを言葉にできる人もたくさんいると思います。
ネットのコミュニケーションは仮面舞踏会と同じですかね。(行ったことないけど)
身分を明かさず顔を隠しているからといって、むやみに殴りかかったりワインを浴びせたりという乱暴を働いたり暴虐な振る舞いをしたりはしませんよね。
浮世の自分を脱ぎ捨てながらも、あくまで社交を楽しむのための場所です。(知らんけど)
「ネットと言えど対人コミュニケーションである。最低限の配慮をせよ。」というマナーの面と、「リアルの肩書きは忘れてここではみんな無礼講じゃ〜!」という楽しい面のバランスが大事なんだと思いました。
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ということで、今後もうっかり「これは不用意な発言かもしれない」とオロオロすることもあるかもしれませんが、そのときは「もし名前と顔を晒してても、今のこの発言を堂々とできるだろうか」と自分の胸に問うようにしたいと思います。
たとえ、顔を晒して喋るには照れくさいような自分語りでも、誰も彼もがつまらないと思うようなしょうもないひとりごとでも、
自身の発言が人間としての在り方やその真髄に反しないものだったら、正々堂々と「それ言ったの私です!!」って言えますもんね。赤っ恥ですけど。
…という感じです。
感じてたこと、言いたいいこと、伝わったかしら???
長くなりましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。
おわり